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音楽の歴史


19世紀の音楽
 
1. ロマン主義音楽の背景

    18世紀のヨーロッパを支配していた啓蒙主義は、理性を偏重し過ぎ、伝統を軽視する傾向があったため、19世紀になると、それに対する反動としてロマン主義が生まれてきました。冷徹な理性よりも、人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表現したのがロマン主義です。ロマン主義はまた、なによりもまず個人の人間性を尊重する芸術でもありました。
 
  特にドイツにおいてその傾向は著しく、1770年代の 〈シュトルム・ウント・ドランク〉 (疾風怒濤)とよばれる文学運動に始まったその運動は、 ゲーテ (J.W. von Goethe、1749-1832)や シラー (J.F. von Schiller、1759-1805)などによって推し進められていきます。19世紀に入ると、さらに、 シュレーゲル兄弟 (兄アウグストAugust W. Schlegel、1767-1845。弟 フリードリヒ Friedlich、1772-1829)、 ノヴァーリス (Novalis、1772-1801)、 ハイネ (H. Heine、1797-1856)、 グリム兄弟 (兄ヤコプ Jacob. Grimm、1785-1863。弟 ヴィルヘルム Wilhelm、1786-1859)などの作家や詩人などが輩出し、ロマン主義文学の花が開いていったのです。
  同じ頃、フランスでは シャトーブリアン (F.G. Chateaubriand、1768-1848)をはじめ、 ユーゴ (V. Hugo、1802-85)、 ラマルティーヌ (Lamartine、1790-1869)、 ミュッセ (A. de Musset、1810-57)などのロマン派の詩人、 ショパン との恋愛で知られる ジョルジュ・サンド (George Sand、1804-76)などの作家が登場し、ロマン主義から写実主義的傾向が高まってきます。また、イギリスには、 ワーズワース (W. Wordsworth、1770-1821)、 バイロン (L. Byron、1788-1824)、 シェリー (P.B. Shelley、1792-1822)、 キーツ (J. keats、1795-1821)、 テニソン (A. Tennyson、1809-92)、 ブラウニング (R. Browning、1812-89)などの詩人が輩出し、デンマークには童話作家として有名な アンデルセン (H.C. Andersen、1805-75)が現れます。 


  さらに19世紀の中頃になると、フランスには ゴンクール 兄弟(兄エドモン Edmond de Goncourt、1822-96。弟 ジュール Jules de、1830-70)や ゾラ (E. Zola、1840-1902)などが出て、自然主義の運動を展開し、《女の一生》で有名な モーパッサン (G. de Maupassant、1850-93)も同じ時期に活動を始めます。自然主義の運動はイギリスにも見られ、 ディケンズ (C. Dickens、1812-70)や ハーディ (T. Hardy、1840-1928)などが活躍。ドイツでは ハウプトマン (G. Hauptmann、1862-1946)が劇作面での仕事を遺しています。
  ロシアでは詩人の プーシキン (A.F. Pushikin、1799-1837)や ゴーゴリ (N. Gogol、1809-52)をはじめ、 ツルゲーネフ (I.S. Turgenev、1818-83)、 トルストイ (C.L.N. Tolstoy、1828-1910)、 ドストエフスキー (F. Dostoevsky、1821-81)、 チェーホフ (A.P. Tchehov、1860-1904)といった、私たちが日頃親しんでいる文豪が次々と輩出されています。
  《人形の家》で知られるノルウェーの イプセン (H. Ibsen、1828-1906)や、スウェーデンの ストリンドベリ (A. Strindberg、1849-1912)なども忘れることができません。

  そうした文学面における多彩な活動と並行するように、美術の世界でも多くの重要な画家たちが登場します。強烈な色彩感で知られる ドラクロア (F.V.E. Delacroix、1798-1863)をはじめとして、 コロー (J.B.C. Corot、1796-1875)、 ミレー (J.F. Millet、1814-75)、 ドーミエ (H.V.Daumier、1808-79)などが現れて、写実主義、現実主義、自然主義といったそれぞれの特色を示しながら、ロマン主義絵画の世界を築き上げ、19世紀末の 印象主義 へと結びついていったのです。

  一方、思想界も18世紀末から19世紀初めにかけて、ドイツに カント (I. Kant ,1724-1804)が出て、その批判哲学による近世的な人間像を打ち立て、その思想は、 フィヒテ (J.G. Fichte、1762-1814)、 シェリング (F.W. Schelling、1775-1854)、 ヘーゲル (G.F.W.Hegel、1770-1831)らへと受け継がれていきます。19世紀の後半になると唯物論の マルクス (K.H. Marx、1818-83)が登場。また、同時代のフランスでは実証哲学が盛んでしたし、イギリスでは、ベーコン以来の経験主義哲学に基づいて、 ミル (J.S. Mill、1806-73)や スペンサー (H. Spencer、1820-1903)などが活躍します。こうした文芸方面や思想界の動きは、ウィーン体制の崩壊に始まる国民主義的な傾向と結びついて、しだいに現実主義的傾向を生み、写実主義や自然主義的な傾向を経て、19世紀末のデカダンスへとつながっていくことになります。

  自然科学の世界も、産業革命を契機として、急速に進歩していきます。エネルギー不滅の法則の発見に貢献した マイヤー (J.R. von Mayer,1814-78)や ヘルムホルツ (H. Helmholtz、1821-94)、電池の発明者 ヴォルタ (A. Volta、1745-1827)や電磁気についてのさまざまな発見で知られる ファラデー (M. Faraday、1791-1867)、進化論の ダーウィン (C. Darwin、1809-82)、遺伝学の メンデル (G.J. Mendel、1822-84)、医学の パストゥール (L.Pasteur、1822-96)、符号式電信の発明者 モールス (S.F.B. Morse、1791-1872)や電話の発明者ベル(A.G. Bell、1847-1922)、さらに電球をはじめとする多くの発明で知られる エディソン (T. Edison、1847-1931)などが、この時代に続々と登場します。これらの人名を列挙しただけでも、私たちの現在の生活に、19世紀の人々がいかに重大な貢献をしたか、そして、これまでの世紀に比べて、文化や暮らしの進歩がいかにスピードアップしてきたかがわかるでしょう。

  社会や政治の面からみれば、 フランス革命 により、ヨーロッパの絶対主義体制の一角が崩れた後、 ナポレオン の出現と彼の敗退、その決着をつけるべく開かれたウィーン会議とそれによる反動体制、さらに民族国家の独立を目ざしての革命や国民運動といったように、社会体制を根本から揺り動かすような激動が続いた世紀でもありました。国によりそれぞれに事情は違っていたとはいえ、フランス革命によって打ち立てられた「人間は平等である」という思想は、人々の中に深く浸透していくことになりました。個人的な感情を大切にするロマン主義の思想も、つまりは、そこから生れてきたものといえます。
 


2. 19世紀はじめの歌劇作曲家たち

  歌劇界は18世紀に引き続き、イタリアを中心に盛んになっていきます。 パイジェロ (G. Paisiello、1740-1816)、 チマローザ (D. Cimarosa、1749-1801)、 ケルビーニ (L. Cherubini、1760-1842)などが出て活躍し、そのあとに スポンティーニ (G.L.P. Spontini、1774-1851)、 ロッシーニ (G.A.Rossini、1792-1868)、 ドニゼッティ (G. Donizetti、1797-1848)、 ベッリーニ (V. Bellini、1801-35)などが続々と登場します。 パイジェロ オペラ・ブッファ の面で見るべき業績を遺し、そのブッファ的な表現技法は モーツァルト に影響を与えています。18世紀の項で紹介した チマローザ の次の世代にあたる ケルビーニ は、20歳代後半にパリに定住し、後にパリ音楽院の教授・院長になった人です。また、 スポンティーニ は1820年以後はイタリアを離れて、ベルリンの宮廷楽長の地位についています。
  この後に続く3人の作曲家は、いずれもイタリアで活動して名声を得たあと、パリに出て活躍しました。いずれも美しい抒情的な旋律が特長で、イタリア歌劇特有のドラマティックな表現を身上とする作曲家といえます。特に ロッシーニ は《セヴィリャの理髪師》によって名声を確立し、歌劇を単なる娯楽作品から、より洗練された味わいのある劇音楽に改めたところに大きな功績が認められます。 ドニゼッティ は《愛の妙薬》や《ルチア》、 ベリーニ は《夢遊病の女》や《ノルマ》などがよく知られています。


  同じ頃のフランスには、 ボアエルデュー (F.A. Boieldieu、1775-1834)、 オベール (D.F.E. Auber、1782-1871)、 アレヴィ (J.F.F.E. Halevy、1799-1862)などが登場します。しかし、当時のパリで華やかな活躍をしたのは、むしろ、ドイツ出身の マイヤベーア (G. Meyerbeer、1791-1864)でした。彼は《アフリカの女》や《予言者》などの歌劇を書き、当時流行していた グランド・オペラ に傑作を遺しました。
グランド・オペラ とは、歴史的な背景に基づく物語を、壮大なオーケストラ編成を用いた劇的な表現、合唱役として登場する大群衆、バレエの効果的な使用などにより、壮麗な舞台劇音楽の形にしたもののことです。当時のフランスでは大変人気がありましたが、スペクタクル的な面白さはあるものの、芸術性に欠けていたため、まもなく廃れてしまいました。しかしながら、 マイヤベーア の諸作品が、 ベルリオーズ の大規模なオーケストラ作品、あるいは ワーグナー の楽劇などに影響を与えたことは大いに考えられます。

  一方、ドイツには ウェーバー (C.M. von Weber、1786-1826)が登場し、有名な《魔弾の射手》を書いて、ドイツ国民歌劇の伝統を確立しました。この ウエーバー には、ピアノ曲の《舞踏への勧誘》そのほかの名作もあって、ドイツの初期ロマン派の作曲者として重要な存在となっています。また、 ウェーバー とほぼ同年代に、ロマン派の文学者として知られる ホフマン (E.T.A. Hoffmann、1776-1822)がいます。 ホフマン は音楽に関する短編小説や《ホフマン物語》を書いたほか、 クライスラー の筆名で音楽評論も書き、 シューマン はピアノ組曲《クライスレリアーナ》を書いて、その音楽観への共感を表しました。


 

3. 名演奏家の出現

  作曲家が作品を書いて、演奏家がそれを演奏し、一般の人たちがそれを聴くという演奏会の形式が完全に確立するのは、20世紀に入ってからです。 バロック 時代の バッハ や 古典派 時代の ハイドン を例に引くまでもなく、音楽家は生活手段として、宮廷楽長や教会の合唱長、あるいはオーケストラの楽員とか一時的に雇用された音楽家として、定職を得ることが必要でした。しかし、時代が変って、 ベートーヴェン のように、自作品の演奏会の開催(ほとんどは作曲者自身で演奏されたが)による収入、弟子の教育による月謝、出版印税、依頼作品の報酬などによって、定職を持たないでも生活していけるようになっていきます。それが、19世紀はじめの状態だったのです。
  市民社会が成立して、音楽家の自立ができるようになると、演奏を主体とする音楽家も現れるようになり、しだいに職業として作曲家と演奏家が分離するようになりました。その最も代表的な人に、ヴァイオリンの パガニーニ とピアノの リスト がいます。


  パガニーニ (N. Paganini、1782-1840)はイタリア出身で、20歳前後から演奏活動をはじめ、1828年の ウィーン 、29年の ベルリン 、31年のパリそれぞれでの演奏会で、すばらしい技巧を聞かせて、当時のヨーロッパに大きな賛嘆と驚異を呼び起こしました。たとえば フラジョレット 、左手の ピッツィカート レガート スタッカート の対比的な使用、二重音奏法など、現在の演奏技巧につながる基本的な奏法を確立したのも、 パガニーニ です。作曲家としても、《24の無伴奏カプリース》のような卓越した作品を書いています。しかし、彼には人間的に少し変ったところがあり、その風貌とともに、悪魔がのりうつっていると噂されることにもなりました。
  そのほか、この時代には、練習曲で知られる クロイツェル (C. Kreutzer、1766-1831)、教則本で有名な シュポーア (L. Spohr、1784-1859)、 ブラームス との関係で知られる ヨアヒム (J. Joachim、1831-1907)などのほか、ベルギー出身の ベリオ (C.A. de Beiot、1802-70)や協奏曲作品でよく知られている ヴュータン (H. Vieuxtempe、1820-81)などの優れたヴァイオリン演奏家が出ています。
  ヴァイオリンの パガニーニ に対して、ピアノで名演奏家とうたわれたのは リスト (F.Liszt、1811-86)でした。しかし、 リスト の場合には演奏家というより、むしろ作曲家としての存在の方が重要といえます。
  その リスト を別格とすれば、この時期のピアニストには、 フンメル (J.N. Hummel、1778-1887)や クレメンティ (M. Clementi、1752-1832)などがいます。 フンメル は、 ベートーヴェン と並び称されるほどの名人といわれた人。各地の宮廷楽長を務め、作曲家としても活動しました。もう1人の クレメンティ は、イタリア出身で、若い時代から卓越したピアニストとして名声をあげ、1781年にウィーンで モーツァルト と競演した話は有名です。
  この2人に続く世代には、 クラーマー (J.B. Cramer、1771-1858)や フィールド (J. Field、1782-1837)がいます。前者は練習曲その他で知られ、後者は ショパン への影響という点で重要な存在です。そのほか、 モシェレス (I. Moscheles、1794-1870)や有名な チェルニー (C. Czerny、1791-1857)も忘れられません。とくに、 チェルニー ベートーヴェン の数少ない弟子の1人で、多くの練習曲を書いたことで知られ、その練習曲は現在も世界中で広く使用されています。また、 フンメル の弟子で、 リスト の好敵手といわれた タールベルク (S. Thalberg、1812-71)も19世紀を代表する優れたピアニストの一人です。

  こうした新しいタイプの音楽家、つまり演奏家を ヴィルトゥオーソ とよんでいます。卓越した演奏家の出現によって、作曲家も、より難しい技巧に満ちた作品を書くようになり、この両者におけるお互いの影響が、この時代の音楽を大きく進歩させる刺激となっていったということができます。



 
4. 古典主義からロマン主義へ

  18世紀の最初の四半世紀時代におけるロマン主義音楽には、まだ多分に古典主義的な形式性が残されていたとはいえ、やはり、古典主義音楽とは違ったある種の味わいが感じられます。たとえば メンデルスゾーン の交響曲は、古典的な ソナタ形式 にしたがってまとめられてはいるものの、主題とその展開、オーケストラの響き、あるいはその色彩的な使いかたなどにより、楽しさに満ちた雰囲気が醸し出されており、これは 古典派 時代の音楽にはなかったものといえます。形式性はしっかり守られているものの、その形式性の中には、極めて個人的な情緒が盛り込まれており、それが聞く人の心に訴えかけてくるのです。

  富裕な銀行家の子に生れ、幼時から正統的な音楽教育を受けて、17歳で早くも有名な《真夏の夜の夢》序曲を書き上げた メンデルスゾーン (F. Mendelssohn、1809-47)の作品には、古典主義とロマン主義の混合した要素が強く示されています。古典主義とするには、その旋律や和声法にあまりにもロマン性が強く、ロマン主義とするには、音楽語法が定型的であり過ぎます。 シューマン ショパン 、あるいは ベルリオーズ リスト といった人々のような自己主張的なロマンティシズムも認められません。それはもしかしたら、彼の育ちの良さからくる環境的なものに由来するのかもしれません。

  その点では、 シューベルト (F. Schubert、1797-1828)にも同じことがいえます。《未完成》をはじめとする交響曲や多くの器楽曲、それに600曲にものぼる ドイツ・リート などに見る彼の音楽性は、豊かな抒情性に満ちてはいるものの、語法としては古典主義的な要素から、それほど抜け出ていません。ただ、絶妙な転調技法によって、音楽にそこはかとない情緒性を与えることにかけては、ずばぬけたうまさを見せています。


ドイツ・リート シューベルト の歌曲において、初めて様式的な確立が行われたと考えられています。 リート という言葉自体は古い時代から多声的な歌曲を意味するものとして使われてきたものですが、音楽史で リート という場合には、主として、 シューベルト にはじまり、 シューマン ブラームス ヴォルフ マーラー R.シュトラウス と受け継がれていく歌曲について使われることがほとんどです。 モーツァルト ベートーヴェン の歌曲も、もちろん リート ですが、 シューベルト 以後のそれとはややニュアンスの違ったものと考えられています。
  歌曲そのものは、詩に音楽がつけられたものという点では、 リート リート 以外も、形の上ではまったく同じといえます。では、 リート リート 以外の歌曲と区別しているものは、何でしょうか?  リート の特色は、詩と音楽が真に一体となることで、そこにまったく新しい世界が生み出されるところにあります。詩を読むことにより、作曲家の心の中には、一つのイメージが生まれます。そのイメージは、文学の世界から生じたものとはいえ、作曲家の心の世界にあるということでは、音楽の世界に属するものです。しかし、その音楽的イメージは詩の作者と共有するものであり、詩のもつ文学的内容もしくは文学的イメージが、音楽的内容もしくは音楽的イメージへと振り替えられたものだともいえます。つまり、それによって、詩の内容がさらに深められたということになります。
  こうした態度で詩を扱い、それにピアノ伴奏をつけるという形で、 リート ができあがります。その際、当時のドイツ・ロマン主義の詩人たちによる詩に音楽づけをしたことで、詩を通して、その精神が音楽にも反映されていったのです。そこで、これまでには見られなかったような独自の世界が、 ドイツ・リート によって作り上げられることとなりました。いってみれば、 ドイツ・リート というのは、“詩によって語られたきわめて個人的な世界が、小さな宇宙としてまとめられた音楽”ということができます。

  この リート の世界と同じようないきかたをしているのが、その頃、ピアノ作品で盛んに作られていた性格的小曲とよばれている小品です。 シューベルト が創始したとされる《即興曲》や《楽興の時》、あるいは メンデルスゾーン が作りはじめた《無言歌》のような作品がそれにあたります。形式にあまりこだわらずに、きわめて個人的な情緒の世界をごく短い作品にまとめたこの形は、その後の作曲家にも広く利用され、それに標題音楽的ないきかたも加えられて、19世紀のピアノ音楽の中心的な曲種となっていったのです。


 
5. 標題音楽とは

ベルリオーズ (H. Berlioz、1803-69)が1830年に書いた《幻想交響曲 》は5楽章から成り、その各楽章には、《夢、情熱》《舞踏会》《野原の情景》《刑場への行進》《悪魔の祝日の夜の夢》といった 標題 がつけられています。そして、楽曲の冒頭には「恋に狂い、生活に疲れた若い芸術家が、夢とも幻想ともつかない不思議な夢をみた。その夢はこんな夢であった」と書いてあり、この曲が表そうとした音楽的内容を説明しています。つまり、この曲を聴くときには、そうした 標題 を意識して音楽を聞いてほしいという、作曲者からの注文が加えられたことになります。


  音楽作品に 標題 がつけられたということでなら、 バロック時代 の作品、たとえば クープラン のクラヴサン曲のような例もあり、 ベートーヴェン の《田園》や メンデルスゾーン の第3、4番の 交響曲 のような例もないわけではありませんが、こうした形で、“作曲者側の要求にしたがって音楽を聴く”という形で 標題 が与えられるようになるのは、この頃から後のことです。それは、古典主義音楽時代の形式性に反撥し、個人的な世界を表現しようとしたロマン派の作曲家にとって、この上もなく都合のよい形でもありました。音楽を言葉によって説明することで、作曲者が描こうとした世界を、より正確に聴きとってもらえる可能性が拓けたところに、 標題音楽 の魅力があったといえるでしょう。自然の風景、人の感情、あるいは文学作品を読むことで生まれたイメージなど、どんなことでも、それによって伝え、表現することができたのです。そしてさらに、 リスト によって交響詩が創始されるようになって、この 標題音楽 的ないきかたは、さらにその真価を発揮することになります。
ベルリオーズ は、 イデー・フィクス(固定楽想) とよばれる動機的な断片を用いて、 標題 またはその説明中の具体的な思想や人物、事物などを表す方式を採用しました。物語の進んでいく中で、それらが関連するところにさしかかると、必ずそのメロディーが出てくることにより、音楽の鑑賞をよりわかりやすく効果的にできるようにと考えたのです。この方法は、さらに ワーグナー に至り、 ライトモティーフ (示導動機)となって、いっそう重要な要素となっていきます。

 
6. ピアノ音楽の隆盛

  19世紀の前半時代は、 ベートーヴェン をはじめ、多くのピアノの名手たちが現れました。それは1つには、この時期にピアノの楽器としての機能がほぼ完成したからでもあります。 チェンバロ にかわって、ピアノが家庭内にも入るようになり、家庭的な音楽が楽しまれるようになったことから、いわゆるハウスムジーク的な作品も書かれるようになりました。 シューベルト メンデルスゾーン によるピアノ小品も、当時のそうした傾向を反映したものといえますし、 シューマン (R. Schumann、1810-56)によるピアノ曲にも同じことがいえるでしょう。

  シューマン は、最初はピアニストになるつもりでスタートしたのですが、無理な練習で指を痛めてしまい、その時点で作曲家に転向することになりました。20歳前後のことです。若い時代から文学に親しみ、文学青年であった シューマン は、そのピアノ作品にも文学的な雰囲気を盛り込み、標題のある小品または小品連曲という形の曲集を書いています。《謝肉祭》や《子供の情景》など、広く知られている作品をはじめ、どれにも文学的な標題がつけられていますが、そうした標題は、聴く人がわかりやすいようにと、作曲した後でつけられたということです。彼のピアノ作品は、標題のついた小曲を組曲形式としてまとめたところに特徴があり、その中に、彼特有の音楽語法による夢幻的な世界が繰り広げられています。声部が絡み合うようにして書かれている彼のピアノ曲の書法は、 ベートーヴェン 時代のピアノ曲とは完全に違っていて、そこには既に完全なロマン主義の表出を見ることができます。
シューマン はまた、 シューベルト の道を継ぐような形で多くの歌曲を書いていますが、その作品には、独自の抒情性の表出が目立ち、ピアノ伴奏部の精緻さとともに、独特のロマンティシズムを表現しています。

  この シューマン と同年の生れである ショパン (F. Chopin、1810-49)は、ごく僅かの作品を除いては、ピアノ曲だけを書いたという点で、きわめてユニークな作曲家といえます。1830年に祖国ポーランドを去ったあと、パリを中心に演奏活動を行いますが、生れつき病身であったために、その演奏活動は主としてサロン音楽会的なところで行われました。彼の作品のほとんどが、サロン音楽的な性格を見せているのは、そのためです。曲種も多様で、〈ワルツ〉をはじめ、〈 ノクターン(夜想曲) 〉〈マズルカ〉〈ポロネーズ〉〈バラード〉〈スケルツォ〉など、独特の雰囲気を持つ名曲を実にたくさん作りました。
ショパン のピアノ作品の特徴は、なんといっても、甘やかな抒情性にあります。その抒情性は、音楽的な意味での即興性に裏づけられるものであり、彼の作品はどれもが独特の音楽語法、つまり、甘美なメロディー、多用する装飾音型、一定の型に基づくフィギュレーション、自由なテンポ・ルバート、あくまでも快い和音感、巧妙な転調といった要素にあふれています。それらはいずれも、 ショパン が“ピアノという楽器を弦楽器のように歌わせる”ことを目ざしたところから、生れてきたものといえるでしょう。

  この ショパン と対照的なピアノ書法を見せたのが リスト (F. Liszt、1811-86)でした。音楽史的には、 リスト は作曲家であり、ピアニストとしても大きな業績を遺した人ですが、ピアノ音楽という面から見れば、ピアノの楽器としての表現機能を極限にまで拡大したという点で特筆されるべき人といえます。彼のワイマール時代には、教えを受けに世界各国から集まった弟子たちの数は、400人にものぼったといいます。演奏家としての活動も、1824年のパリでの独奏会から数えて30年近くも続いており、その超人的な技巧とともに、近世における ヴィルトゥオーソ のまさに第一人者といってよいでしょう。

  現在のようなピアノだけによる リサイタル 形式の演奏会を最初に開いたのも リスト だったといわれています。 リスト がオーケストラに匹敵するほどに、ピアノという楽器の表現機能を拡大したことは、ピアノ音楽の発展においてきわめて重要な意味を持つ画期的な出来事でした。その一方、《ロ短調ソナタ》や2つの協奏曲をはじめとする彼の多くのピアノ作品は、それ自体、ピアノの演奏技巧のある限界を意味するものともいえます。それだけに彼のピアノ作品は、技巧性と表面的な華麗さに終始し過ぎて、音楽的な美しさに欠けると評されることもないではありません。しかし、そうした中にも、やはりロマンティシズムにあふれる豊かな抒情性をもつ彼の作品には、“ピアノで描く音の詩”といった趣きが強く感じられます。
リスト の音楽史的な功績としてはもう1つ、交響詩の創始が挙げられます。この交響詩という言葉は、1848年に書かれた《前奏曲》から用いられ始めたとされています。一定の動機に変化を与えながら、それを曲全体に展開する、メタモルフォーゼ(変容)と呼ばれる方法を用いて、曲の標題的な性格を強調しています。この方法は、以後の作曲家にも使用されて、多くの名曲が遺されていくことになります。

  この リスト より、世代的には少し若くなりますが、同じ頃にウィーンで活躍した作曲家に、 ブラームス (J. Brahms、1833-97)がいます。当時は、 リスト ワーグナー による新ドイツ主義、つまり爛熟したロマン主義が幅をきかせていた時代でしたが、 ブラームス はそれとは反対の立場に立っていました。若い時代にはピアニストとしても活躍し、 シューマン の後押しを受けて楽壇に乗り出していくことになります。そうした若い頃のピアノ作品には、やや技巧に走る傾向が見られるものの、晩年に書いた小曲集には、内的な瞑想性がにじみ出ており、胸を打たれます。 バッハ を尊敬し、 ベートーヴェン に傾倒していた彼の作品が、多分に保守的であるのは当然です。しかし、現在もなお、彼の作品の多くがレパートリーの上位にあるような名作を書きえたのは、その古典主義的な形式のなかに、 ブラームス 流のロマン主義を盛りこみ、その両者をバランスよく扱いえた作曲家としての力量があったためでしょう。

ブラームス の作品の第一の特色は、がっちりとした構築性のなかに、落ち着いたロマンティシズムが注ぎ込まれていることです。 標題音楽 や歌劇のような分野には手を出さず、もっぱら古典主義的な形式的客観性の世界にとどまろうとしたのは、爛熟したロマンティシズムに対する明らかな挑戦だったともいえます。これ以後、後に続くドイツの音楽界には、 ワーグナー に共鳴するワグネリズムの流れに立つ作曲家と、 ブラームス ふうな作風をもつ作曲家との2つの方向が見られるようになっていきます。
  ブラームス はまた、 ドイツ・リート の分野で300曲ほどの歌曲を遺していますが、とくに、ドイツ民謡をもとにした歌曲集には、彼のやさしい人柄の反映が感じられ、 シューベル トや シューマン の開いた道に沿って、詩をさらに的確にとらえようとする志向が見受けられます。しかし、“詩を物語る”ことに力を注いだあまりに、彼の歌曲にはやや地味な印象がつきまとうのも事実といえます。

 
7. その後の歌劇界

  歌劇の国イタリアでは、19世紀前半の ロッシーニ らの活躍のあとを継ぐようにして、 ヴェルディ (G. Verdi、1813-1901)が現れます。ヴェルディは、ドイツで 楽劇 を創始した ワーグナー と同じ1813年の生まれです。 ワーグナー が歌劇作曲家として名声をあげ、1845年に《タンホイザー》を上演したのと相前後して、 ヴェルディ は1851年に《リゴレット》を発表し、歌劇作曲家としての名声を確立していきます。この2人の作曲家は、その後も、一方は伝統的なイタリア歌劇の世界を代表し、他方はドイツ歌劇、特に楽劇という新しいジャンルにおいて、それぞれの道をほぼ並行して歩んでいくことになります。

  ヴェルディ はその長い生涯を通じて歌劇を一貫して書き続けました。イタリア歌劇の伝統となっている旋律中心主義的ないきかたを守りながらも、声楽の扱いに工夫を見せ、旋律の美しさやオーケストラの効果的な使用などにより、歌劇にいっそうの劇的迫力を与えることに成功しています。 ヴェルディ の歌劇作品にはなによりもまず、見る楽しさ、聴く楽しさが盛り込まれており、その点ではあくまでもイタリア歌劇の伝統を守っているといえます。

  この ヴェルディ の後半生の活動と平行するようにして、イタリアには ヴェリズモ (現実派歌劇)とよばれる新しい傾向が生れてきます。ヴェリズモとは、現実生活に材をとった歌劇のことです。現実から遊離しがちなロマン主義への、いわば反動として生じてきたものといえます。代表的な作品には、 マスカーニ (P. Mascagni、1863-1945)の《カヴァレリア・ルスティカーナ》や レオンカヴァロ (R. Leoncavallo、1858-1919)の《道化師》などがあり、いずれも男女の三角関係をテーマとして、最後は殺人で幕切れになるという生々しさが特徴でした。この後に出る プッチーニ (G. Puccini、1858-1924)も同じ傾向を見せ、《ボエーム》《トスカ》《蝶々夫人》など、同時代的な現実生活に材をとった数々の名作を発表しました。 プッチーニ の歌劇の特色は、登場人物の描写やその情緒表現に巧みだったことで、それは前記の作品中の主人公であるミミやトスカ、あるいは蝶々夫人の舞台を見ればよくわかります。

  この時期、フランスでは抒情歌劇とよばれるメロドラマふうの作品が盛んに作られていました。おもな作品には、 トマ (C.L.A. Thomas、1811-96)の《ミニヨン》、 グノー (C. Gounod、1818-93)の《ファウスト》、 サン=サーンス (C. Saint-saens、1835-1921)の《サムソンとデリラ》などがあります。そうしたなかで、 ビゼー (G. Bizet、1838-75)の書いた《カルメン》はずばぬけた面白さで、今なお歌劇場のレパートリーとして、常に上位を占め続けています。

  ドイツでは既に触れたように、 ワーグナー (R. Wagner、1813-83)が登場します。彼の初期の作品は歌劇と題されていましたが、1859年に書いた《トリスタンとイゾルデ》から楽劇と称されるようになりました。楽劇とは、要するに総合芸術という意味です。台本となる文学、それにつけられる音楽、舞台装置などの美術、登場人物の演技など、そのすべてが総合されて、ひとつの芸術作品へと結集していくのが楽劇でした。そのために、 ワーグナー はみずから台本を作成し、作曲をし、演出から指揮に至るまですべてを1人で行い、最終的には楽劇を上演するにふさわしい劇場として、 バイロイト祝祭劇場 を建設するに至ります。

  ワーグナー はこの楽劇を書いていく上で、さまざまな工夫をみせています。その1つに、楽劇としての劇的進行を円滑にするための ライトモティーフ の使用があります。また、従来の歌劇のように アリア や重唱ごとに音楽に切れ目が生じるのを避けて、 無限旋律 といわれる途切れることのない旋律作法を導入しました。この無限旋律のために、必然的に主和音に終止する機能和声の方法は避けられることになり、そこに半音階法的な調性のあいまいさが生じて、近代音楽の発生にきわめて重要な影響を与えることになります。

  19世紀、ことにその後半において、もう1つ歌劇界で特筆すべきことは、 オペレッタ の作品が盛んに作られたことです。パリでは、 オッフェンバック (J. Offenbach、1819-80)が出て《天国と地獄》を書き、ウィーンでは、ワルツ王として有名な ヨハン・シュトラウス (子)(J.Strauss、1825-99)が《こうもり》《ジプシー男爵》を書いて人気を集めました。また、ロンドンには サリヴァン (A.S. Sullivan、1842-1900)が出て、《ミカド》そのほかの作品を書いています。